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2015年8月 8日 (土)

学童疎開を体験した母が孫たちに送った手紙

この手紙は始め、平成6年(1994年)8月に、当時小学校4年生だった私の娘に送られたものです。

書いたのは私の母です。昭和11年生まれの母が小学4年生、昭和20年頃の話です。

覚えたてのワープロで書いていて、その後少し書きかえたりして、あとの2人の女の子の孫にも、小学4年生の夏休みに送っていました。

戦後70年。

今の私には安保法案が是か非か子どもたちに話す、確固としたものがありません。

もちろん戦争は反対です。侵略戦争などもっての他。でも今ある国境を守る事が相手国から侵略と思われるのだろうか。現に日本領空にミサイルを飛ばすすべを持っている国に

「戦争は嫌、だからミサイルを落すなら落しなさい。私たちは抵抗しません。」とまで言える自信はない。愛する子どもたちがいる孫も生まれた。

せめて

16年前母が書いたこの手紙を、子どもたちがもう一度読み返してくれることを願い、孫たちの時代にも戦争が起こらないように祈りながら、記録に残そうと思いました。

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○○ちゃん、毎日暑いですね。プールや海で遊んだりたのしい事がいっぱいの夏休み、宿題も大変でしょうね。

おばあちゃんが三年生の頃、プールがあってもほとんど入れません。それどころか、四年生になるとすぐ四月から十一月まで、お父さんやお母さんたちと遠く離れていて、会うことも電話もできなかったのです。夏休みになっても、海にも行けませんでした。お友達の中には、一年以上も家族と会うことができなかった子どももいました。なぜだかわかりますか?

 そのころ、日本はアメリカやイギリスなどと戦争をしていたのです。

そして、八月十五日は「終戦記念日」といって、日本が負けて戦争が終わった日なのです。

今から54年前、おばあちゃんが○○ちゃんと同じ、四年生の時のことです

 今日のお手紙はちょっと長いけど、ぜひ最後まで見てくださいね。お父さんお母さんにも読んで聞かせてあげてください。九州のおねえちゃんたちにも、四年生の時お手紙を出しました。

おばあちゃんが一年生になったころ(そのころは小学校ではなくて、国民学校と言っていました)日本はアメリカやイギリスなどと戦争をしていました。男の人は兵隊さんになって外国に戦争に行ってしまいます。大人の男の人たちの代わりに、中学生のお兄さんだちは、学校にも行けないで工場で働いています。飛行機や戦車、軍艦などの戦争の道具を作ったりします。

あなたのおじいちゃんも、その頃中学生だったので、毎日工場で働いていたそうです。女学生のお姉さんたちは、兵隊さんの洋服を縫ったり、男の人のいなくなった後の農家や工場にお手伝いに行きました。

お年よりや女の人たちばかりが、がんばって働いても、食べ物や色々な品物が、だんだん少なくなってきました。ノート、えんぴつ、消しゴムもひとりいくつと決めて配られます。くつやソックスも時々一クラスに三足ぐらいきます。順番に一つづつしか買えないのです。色は黒か紺だけ。

三年生のころ、給食はあっても、かたい塩味のコッペパン一個と水だけです。家でもお米は少ないし、甘いお菓子などもありませんでした。食べ物のほかにも物がないので、えんぴつ消しゴムも小さくなるまで、だいじに使いました。食べ物もまずくてもけっして残したりはしません。

『ほしがりません(戦争に)勝つまでは』とか『ぜいたく(する人)は敵だ』とか言って、がんばっていたのです。

三年生のお正月ころからは、学校の運動場で遊ぶことはあまりできませんでした。勉強をしていても、

『アメリカの飛行機が来る』という合図のサイレンがなると、急いで帰らなければなりませんでした。

このころには、東京は毎日のように、どこかでサイレンがなるので、学校に行ってもすぐ帰ることが多くなりました。夜中でもサイレンがなるので、ゆっくり寝られません。すぐ外に出られるように、寝まきではなく洋服を着たまま寝ます。サイレンがなると防空壕という、地下にほった穴の中にかくれたり、夜も空からみつからないように街灯も付けられないので外はまっくら、家の中も外に光がもれないように、窓には黒いカーテンをかけ、小さい電球に黒いカバーをかぶせて、暗くしてあります。

東京は三月九日の夜から十日の朝まで大空襲があり、たくさんのアメリカの飛行機が来て、一晩中爆弾を落としたので、ちょうど神戸の大震災で家が焼けたり、壊れたりした後のような町が一面に広がり、たくさんの人がなくなりました。そして次の日も、また次の日もどこかで空襲が続くのです。ますます戦争が激しくなって学校にも行けないし、空襲で死んだりけがをする子どもも多くなりました。

東京など都会にいる子どもたちは、学童疎開といって、子どもだけで空襲のない遠い村などにいくことになりました。五十人くらいづつにわかれ、先生が二、三人付き添ってくださいます。お父さんお母さんの代わりです。

二年生から六年生までみんな、お父さんお母さんとはなれて暮らすのは初めてです。しばらくは、夜泣いたりする子も大勢いました。お母さんたちも心配で子どもと離れるのは、とてもつらかったと思います。

おばあちゃんは四年生の時、富山県に行きました。そのころは汽車で丸一日かかるとても遠いところでした。

学童疎開に行くのは夕方、学校まで見送りに来てくれたお母さんたちと、さよならした時は遠足に行くようで、初めて汽車に乗るのが嬉しくて、騒いでいたのですが、夜になり電気も暗くして、窓の黒いカーテンも閉めてしまうと、みんなだんだんさみしくて黙ってしまいました。その汽車には、東京のいくつかの小学校から来た、学童疎開の子どもたちばかりが乗っているのです。そっと窓の外をのぞくと、遠くの空が真っ赤になっています。その時も東京のどこかが空襲で、町中が火事になっていたのです。昭和20年4月18日の夜でした。真っ赤な空が東京のどの辺かはわかりません。誰かが「家の方かもしれない」と言うので、とうとうみんなしくしく泣き出してしまいました。先生たちに「大丈夫だから皆おやすみなさい」と言われ、泣きながらも寝てしまったようです。

 翌朝美しい山の雪景色に、皆やっと元気になりました。夕方になって汽車を降りると、富山は寒いところなので、四月で春なのに雪があちこちに残っていました。駅からは今度はトラックの荷台に乗り、一面に広がる畑の中のガタガタ道を通り、やっとお寺に着きました。

 お寺や村の人たちに迎えられて、今日は特別だからと、白いお米だけのご飯を食べさせてくれました。何もはいっていないご飯なんて久しぶり、おかずはたくあんだけでも、とっても美味しかったのです。

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その時お寺には大勢の子どもたちが生活する用意がまだできていなかったので、しばらくのあいだは二、三人づつ分かれて、近所の農家にお世話になりました。私たち女の子三人がお世話になった家には、三人の女学校のお姉さんがおられました。親元を離れてきた子どもたちをかわいそうに思われたのでしょう、おばあさん、おじさん、おばさん、お姉さんたち、みんな本当の家族のようにとても親切にしてくださいました。後からお寺で生活するようになってからも、時々このおうちに帰ってきて、やぎやうさぎと遊んだり、にわとり小屋で卵を見つけたり、やぎのミルクも飲みました。また稲刈りなど、東京ではできない農家の事をいろいろ体験させていただきました。富山にいる間はここが私の家だったのです。

 学童疎開の子どもたちの中には、食べるものも少ないので強い子に取られたり、いじめられたりで、その頃の事は思い出したくもないと言う人も多いのです。戦争はいやなことです。家族が離れ離れになったり、遊びも勉強も楽しくできないなんて・・・農家の方たちとしても、親戚でもない全く知らないよその子を何日も預かるなど、とても気を遣う大変なことだったのでしょうね。

でも農家の生活を知らないおばあちゃんにとって、空襲のある東京を離れて、このおうちにお世話になり、かわいがって頂いたことは、とても楽しい思い出です。54年たった今でも、お姉さんたちと年賀状でお話ししているのですよ。いつかお尋ねしてお礼を言いたいと思っています。

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農家でしばらくお世話になった後いよいよこれからお寺で生活します。本堂でみんな並んで寝ます。お布団の出し入れもみんなでします。お寺の朝は早いです。ラジオ体操の後広い庭の掃除、食事の片づけなどみんなでします。男の子も女の子も小さな物はお洗濯もします。洗濯機も湯沸かし機もありませんよ。川は冷たいけれど、とてもきれいです。川の水や井戸水を汲んで、たらいで洗います。

小さい二年生もがんばっていました。村の子どもたちと一緒に勉強して学校から帰ると、お寺で宿題をしたり、川で魚釣りをしたり、東京の家族に手紙を書いたり、空襲のないのがとてもうれしかったです。もちろんテレビもゲームもないけれど、お手玉、おはじき、まりつき、あやとり、石けり、草で人形を作ったり、みんな工夫して遊んでいました。安心して外で遊べるので楽しかったです。

でも食べ物は少なくて、東京にいた時もそうでしたが、お米も少ししかないので、量を多くするために、色々なものが入っているのです。麦や大豆、大根、お芋などがたくさん入っています。味は何もついていないのですよ。さつまいもを掘ったことがありますね。あの葉っぱがついている茎も食べられたのです。けっしておいしくはありません。でもお腹が空いていたので、みんな我慢して食べました。

おやつも甘いものなどはありません、昼間みんなで田んぼでとったイナゴ(バッタのような稲を食べる虫)を炒った物や、節分の豆の小さくてもっと固いものなど。お芋は今のように黄色でほくほくしたおいしいものではなくて、白いお芋でした。

ただ東京にいた時のように敵の飛行機が来ないから、サイレンでかくれる事もなく、広々とした野原を村の子どもたちと、駆け回ったり山登りしたり、牛やヤギやうさぎと遊んだり、小さな浅い川で水遊び、蛍もたくさん捕まえてお寺の広い部屋に放すと、夜私たちが寝ている上に飛んでいて、とても綺麗でした。

子どもたちには戦争の事はほとんど知らされていません。日本はもうじき戦争に勝って、私たちも東京に帰って、お父さんお母さんにも会えるのだとばかり思ってました。

八月になって六日には広島に、九日には九州の長崎に、原子爆弾か落されました。これは世界で初めてのとても恐ろしい爆弾です。大勢の人が死んだり、病気になりました。原爆病は54年たった今でも、まだ直らないで毎年亡くなる方が大勢いるのです。そしてまだ病気で苦しんでいる人がたくさんいるのです。

こんな爆弾をいくつも落されたら大変です。昭和20年(1945年)8月15日日本が降参して戦争が終わりました。その時、負けたのは悔しいけれど、もう爆弾は落されないし、東京に帰って家族と会えるのが嬉しかったのです。

でもなかなか東京には帰れませんでした。東京には戦争に行っていた兵隊さんも大勢帰ってきます。家も焼けて住むところのない人もいます。学校なども壊れているし、田舎に行っていた子どもたちが、一度に帰ってくると、食べ物も少ないので大変なのです。やはり東京よりは田舎の方が、食べるものはおいしくはなくてもたくさんありましたから。

この戦争で、親と離れて都会から田舎に学童疎開した子どもは、日本全国で43万人と聞いています。

11月にやっと東京に帰ってきて新宿駅に着くと、まわりはずっと焼け野原が広がっていました。おばあちゃんの家は新宿から電車で一つ目なので心配でしたが、もう少しの所で焼けてはいませんでした。家族もみんな元気で、戦争に行ったお兄さんも、農家にお手伝いに行っていたお姉さんも無事に帰っていました。

本当におばあちゃんの家は運がよかったのです。その頃は戦争に行っていたお父さんお兄さんが戦死したり、空襲で家が焼けて、家族も亡くなって、一人ぼっちになってしまった子どもが大勢いました。道端や駅の中に寝たり、靴磨きや花売りなどをして、ほんの少しのお金をもらい、食べ物を買っている子どももいました。お金もなくなって、仕方なくお金や食べ物をどろぼうする子どももたくさんいたのです。食べなくては生きていられませんものね。

破れて汚れた服を着てふらふら歩いている人、小さな子の手をつないで、道にぼんやり座っている子、仕事もなく食べることもできないで、寒い冬でも駅のガード下にうずくまっている親子が何人もいました。周りの人たちも、みんな自分の事で精一杯、助けてあげることもできないのです。

平和でお金を出せば何でも買える生活をしている今の子どもたちには、いいえ、お父さんお母さんたちにも信じられないことかもしれないけれど、今から54年前、そういう苦しい時代がありました。

地震とか台風火山の噴火などは自然が起こすので、人間には防ぐことができません。でも戦争は人間が起こすのです。戦争があれば必ず人が死んだり苦しんだりします。そんな事はして良いはずありませんよね。

今でも戦争をしている国があります。テレビで見ると、日本の時よりもっと苦しんでいる人たちがたくさんいます。南の方の国には、今は戦争をしていない場所なのに、地面の下に爆弾が埋まっていて、上を歩くだけで爆発して、死んだり足をなくした人がいます。一度戦争をすると、なかなか平和に暮らせないのですね。科学が発達するのは良いのですが、原爆水爆など恐ろしい核兵器は絶対に使ってはいけない事なのです。これからのあなたたちの時代、早く世界中が平和になるとよいですね。

長いお手紙になってしまいました。あなたが四年生になった時、お話ししようと前から思っていました。同い年になれば気持ちもわかってもらえると思って、おばあちゃんとは54歳も年が違うのですね。学校でも戦争のことなどのお話しがあったら、こういう苦しくて悲しい時代のあったことを思い出してください。そして今、戦争のない平和な日本で、楽しい良い思い出をだくさん作ってください

             平成11年8月

ママのお母さんのお話読んでくれてありがとう

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