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犬嫌いだった私がチャムを育てられてるのも、リクガメと水生カメの区別もつかなかったのに、なんとか?ジュリアが生きてるのもネット情報のお陰です。 私の経験もどなたかの参考になればいいなと思います。 離れて暮らす親がこのブログを楽しみにネット社会に触れて身近に感じてくれたら、そんな思いを込めてこれからも細々と続けていくつもりです。リンクフリーです。どうぞよろしくお願いします。 カギコメ機能がないのでお気軽にメールください⇓

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2017年8月 8日 (火)

青い目の人形物語~福岡編

6日の日曜日11時ごろ出発して道の駅伊万里で梨とぶどうを購入

目的の

Img_20170808_0002_new 出店でお昼に伊万里牛丼など食べたものの

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目的の女みこしは1830からとわかり

暑さに挫折して帰りました

実は糸島市の広報誌に掲載してあった

 福岡)「青い目の3人形」題材に平和劇や企画展:朝日新聞デジタル

が観たかったので

台風の影響で涼しきなってきた伊都文化会館でチャムのお散歩をお願いして

私だけ観てきました

20170806_005 昭和2年にアメリカから送られた青い目の人形は福岡県にも260体届いたそうです

戦時中敵国の人形としてほとんどが焼き捨てられたり処分されてしまいましたが

糸島市可也(かや)小学校の青い目の人形ルースは

昭和54年校舎の改築の時天井裏から見つかったそうです

嘉穂小(嘉麻市)のペッギイ、城島小(久留米市)の「シュリー」の3体の人形のヒストリーの演劇でした

↓ で人形の展示があるそうです

http://www.city.kama.lg.jp/file/temp/3686792.p

戦争から平和を考えること・・・子供たちにつなげていかないといけない

とは思うものの・・・・なかなか

母からラインが来ました

今週のキャスト|やすらぎの郷|テレビ朝日.

八千草薫が演じる90歳近い女優の戦時中特攻隊に出る若者を慰問に行った・・・・という話・・・若い人に観てほしいと

母は慰問袋に入れる手紙・・・書いたことあると・・・

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2016年4月 7日 (木)

花散らしの雨

昨晩からどっさり雨が降っています

こんな日は我が家のプランターがお役立ち

ジュリアには

一昨日付いてきた桜の花びらが残ってますね

835キロ

今日は雨だけどあったかいよ

5日のお天気にお昼を桜の下で食べました

葉桜的だけど

こちら側はいい感じ

今日は桜組の幼稚園服やめてミツバチさん

時々風が吹くと
うわーって桜吹雪
曇り空だから写りませんね

対岸の階段のゴミみたく写ってしまいました

義母と娘2号色々お話ししてました
このギシギシ
戦争時代は子どものおやつだったとか
茎をおって筋を取って食べてみました
酸っぱいけど二口三口なら食べられる
とはいえおやつがこればかりとは
これが戦争覚えときんしゃい
と言われました
(ギシギシはリクガメの餌にはNGだそうです)

2015年8月15日 (土)

戦後70年にできたこと

戦争の悲惨さをTVでみた

日本人の誰もが戦争はしてはいけないとわかっている

攻められたときのための軍備が必要か戦争体験者にアンケートをとる番組はなかった

今の時代実戦になれば、心的外傷後ストレス障害(PTSD)対策として、攻める方は遠隔操作でゲームのように進行させていく番組を見たことがある

準備ができていたら、考えているより簡単に戦争ははじまってしまうかもしれない

準備ができていなかったら、島国は簡単に消滅してしまうかもしれない

たまたま里帰りした娘に話してみた

娘の旦那さんの親はもう戦争を知らない世代

だから

あなたのおばあちゃんは学童疎開を経験した。あなたのおじいちゃんは東京空襲の中逃げ回った。空襲は都会だけでなく、福岡のおばあちゃんの田舎にもあった。糸島にもあった。福岡のおじいちゃんは空軍に入って、厳しい訓練を受けて飛行機に乗る前に戦争が終わった。だから福岡の空襲は体験していないけど、二つ下のおじさんは、布団を濡らして空襲の中逃げ回った、逃げ込む防空壕がなくって逃げ回ったから、助かったのかもしれない、防空壕に入れた人たちはかなり死んだ。って言っていた

おばあちゃんの手紙もう一度読んでみて。それくらいしか伝えられない。それくらいしか知らないから。

戦後70年にできたことがそれだけ

2015年8月 9日 (日)

母の手紙の追記から

母が母の姉に聞いた話

4月18日私が学童疎開に出た後は、両親と姉の三人だけ。空襲でまわりは焼けて屋根の物干し台から見ると、夜空は真っ赤に染まり昼間でも空はうす赤く曇っていてお日様もうっすらとしかみえません。姉は昭和2年生まれ当時18歳。両親と一緒とはいっても、どんなにか心細かったでしょうね。昼でも夜中でも何度も空襲警報サイレンが鳴ると、そのたびに庭に掘った穴、防空壕に隠れます・・私も入ったことがあります。ただ土を掘っただけの穴、爆弾を落されたらどうしようもないです。

5月サイレンと「敵機来襲逃げろ」の合図にリヤカーに荷物を積み厚い防空頭巾を水に濡らし三人で初台坂下に逃げたそうです。逃げる人たちで道はいっぱい、八幡様の近くまで来ると、もう動けずにいて、そこで夜明けを待つしかなかったようです。そのうち敵機の爆音と共に近くに焼夷弾が落ちて火の粉をかぶり、お父さんが払ってくれたとか。

私たち子どもや、田舎に親戚がある人たちは、家族みんなで疎開した人もいます。その後都会に残った人たちは本当に怖い思いをしていたのですね。姉たちは少し明るくなって、警報解除になり家に帰ったら、幸いにも我が家の周辺は焼けずに残っていました。それでも小さい火の粉が入ったのでしょう、畳が何か所か焦げていたそうです。

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母はがっかりするかもしれないけど

私はこの追記の手紙をもらってながらも、こうして自分で入力し直すまで

母の実家が戦災で焼けなかったという意識がなかった

古い振り子時計、障子があって縁側があって、すりガラスに雨戸、裏には手押しポンプの井戸があって、広い玄関、離れの部屋、しゃがんで降りる約束の急な階段・・・・私のアルバムには室内の写真はなかったけれど、記憶にはしっかり焼きついている。

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埼玉の自宅より初台は都会だったけど

私にはその古い家は、充分田舎でした

 

さっき母からLINEがきました

防空壕にはその頃まだ木の足だったミシンも入れて、仏壇は入らなかったので位牌の木の札をリュック入れて母に背負わせた。ご先祖様が守ってくれるからねと。

母は昭和23年に小学校を卒業しているわけですが、その当時戦後の混乱で学校にも名簿がなく、有志で焼け残った古い写真を持ち寄ったり、昔の友達の近所の方に聞いたり自分たちで2年がかりで名簿を作ったそうです。そして卒業後50年、同期会に70人が集まったそうです。また、出会えた友人と疎開先を訪ねて55年ぶりにお礼を言う事ができたそうです。

母は疎開先にも親切にしてもらえ、家族が亡くなることもなく、家も焼けず運がよかったといいます。それでも、話で聞くのと、こうして文章にして打ち込むのとでは、私にとってずいぶん重みが違ってました。

私の幼いころ、東京の大きな駅、たぶん新宿や渋谷、新橋のどこか

戦争の?茶色い服と帽子を被った人が、看板を持って頭を下げていたのを覚えています。その人には腕がなかったような・・・幼心に見てはいけないものを見た気がしました。

その時のうしろめたさが心のどこかに残っています。

今、親の体験を聴かないで過ごすしてしまったら、それに似た後悔をしそうな気がします。

戦争体験あるいは戦争の記憶のある親を持つ私たちは、まだ戦争の体験談に関心のない若い子どもたちに、生に近い声を伝えられるように、記録しておく義務があるように思っています。

 

総務省|一般戦災死没者の追悼|渋谷区における戦災の状況(東京都).

 

[学童疎開って何?]全国疎開学童連絡協議会 公式ホームページ 〜子どもたちの戦争体験〜.

 

 

2015年8月 8日 (土)

学童疎開を体験した母が孫たちに送った手紙

この手紙は始め、平成6年(1994年)8月に、当時小学校4年生だった私の娘に送られたものです。

書いたのは私の母です。昭和11年生まれの母が小学4年生、昭和20年頃の話です。

覚えたてのワープロで書いていて、その後少し書きかえたりして、あとの2人の女の子の孫にも、小学4年生の夏休みに送っていました。

戦後70年。

今の私には安保法案が是か非か子どもたちに話す、確固としたものがありません。

もちろん戦争は反対です。侵略戦争などもっての他。でも今ある国境を守る事が相手国から侵略と思われるのだろうか。現に日本領空にミサイルを飛ばすすべを持っている国に

「戦争は嫌、だからミサイルを落すなら落しなさい。私たちは抵抗しません。」とまで言える自信はない。愛する子どもたちがいる孫も生まれた。

せめて

16年前母が書いたこの手紙を、子どもたちがもう一度読み返してくれることを願い、孫たちの時代にも戦争が起こらないように祈りながら、記録に残そうと思いました。

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○○ちゃん、毎日暑いですね。プールや海で遊んだりたのしい事がいっぱいの夏休み、宿題も大変でしょうね。

おばあちゃんが三年生の頃、プールがあってもほとんど入れません。それどころか、四年生になるとすぐ四月から十一月まで、お父さんやお母さんたちと遠く離れていて、会うことも電話もできなかったのです。夏休みになっても、海にも行けませんでした。お友達の中には、一年以上も家族と会うことができなかった子どももいました。なぜだかわかりますか?

 そのころ、日本はアメリカやイギリスなどと戦争をしていたのです。

そして、八月十五日は「終戦記念日」といって、日本が負けて戦争が終わった日なのです。

今から54年前、おばあちゃんが○○ちゃんと同じ、四年生の時のことです

 今日のお手紙はちょっと長いけど、ぜひ最後まで見てくださいね。お父さんお母さんにも読んで聞かせてあげてください。九州のおねえちゃんたちにも、四年生の時お手紙を出しました。

おばあちゃんが一年生になったころ(そのころは小学校ではなくて、国民学校と言っていました)日本はアメリカやイギリスなどと戦争をしていました。男の人は兵隊さんになって外国に戦争に行ってしまいます。大人の男の人たちの代わりに、中学生のお兄さんだちは、学校にも行けないで工場で働いています。飛行機や戦車、軍艦などの戦争の道具を作ったりします。

あなたのおじいちゃんも、その頃中学生だったので、毎日工場で働いていたそうです。女学生のお姉さんたちは、兵隊さんの洋服を縫ったり、男の人のいなくなった後の農家や工場にお手伝いに行きました。

お年よりや女の人たちばかりが、がんばって働いても、食べ物や色々な品物が、だんだん少なくなってきました。ノート、えんぴつ、消しゴムもひとりいくつと決めて配られます。くつやソックスも時々一クラスに三足ぐらいきます。順番に一つづつしか買えないのです。色は黒か紺だけ。

三年生のころ、給食はあっても、かたい塩味のコッペパン一個と水だけです。家でもお米は少ないし、甘いお菓子などもありませんでした。食べ物のほかにも物がないので、えんぴつ消しゴムも小さくなるまで、だいじに使いました。食べ物もまずくてもけっして残したりはしません。

『ほしがりません(戦争に)勝つまでは』とか『ぜいたく(する人)は敵だ』とか言って、がんばっていたのです。

三年生のお正月ころからは、学校の運動場で遊ぶことはあまりできませんでした。勉強をしていても、

『アメリカの飛行機が来る』という合図のサイレンがなると、急いで帰らなければなりませんでした。

このころには、東京は毎日のように、どこかでサイレンがなるので、学校に行ってもすぐ帰ることが多くなりました。夜中でもサイレンがなるので、ゆっくり寝られません。すぐ外に出られるように、寝まきではなく洋服を着たまま寝ます。サイレンがなると防空壕という、地下にほった穴の中にかくれたり、夜も空からみつからないように街灯も付けられないので外はまっくら、家の中も外に光がもれないように、窓には黒いカーテンをかけ、小さい電球に黒いカバーをかぶせて、暗くしてあります。

東京は三月九日の夜から十日の朝まで大空襲があり、たくさんのアメリカの飛行機が来て、一晩中爆弾を落としたので、ちょうど神戸の大震災で家が焼けたり、壊れたりした後のような町が一面に広がり、たくさんの人がなくなりました。そして次の日も、また次の日もどこかで空襲が続くのです。ますます戦争が激しくなって学校にも行けないし、空襲で死んだりけがをする子どもも多くなりました。

東京など都会にいる子どもたちは、学童疎開といって、子どもだけで空襲のない遠い村などにいくことになりました。五十人くらいづつにわかれ、先生が二、三人付き添ってくださいます。お父さんお母さんの代わりです。

二年生から六年生までみんな、お父さんお母さんとはなれて暮らすのは初めてです。しばらくは、夜泣いたりする子も大勢いました。お母さんたちも心配で子どもと離れるのは、とてもつらかったと思います。

おばあちゃんは四年生の時、富山県に行きました。そのころは汽車で丸一日かかるとても遠いところでした。

学童疎開に行くのは夕方、学校まで見送りに来てくれたお母さんたちと、さよならした時は遠足に行くようで、初めて汽車に乗るのが嬉しくて、騒いでいたのですが、夜になり電気も暗くして、窓の黒いカーテンも閉めてしまうと、みんなだんだんさみしくて黙ってしまいました。その汽車には、東京のいくつかの小学校から来た、学童疎開の子どもたちばかりが乗っているのです。そっと窓の外をのぞくと、遠くの空が真っ赤になっています。その時も東京のどこかが空襲で、町中が火事になっていたのです。昭和20年4月18日の夜でした。真っ赤な空が東京のどの辺かはわかりません。誰かが「家の方かもしれない」と言うので、とうとうみんなしくしく泣き出してしまいました。先生たちに「大丈夫だから皆おやすみなさい」と言われ、泣きながらも寝てしまったようです。

 翌朝美しい山の雪景色に、皆やっと元気になりました。夕方になって汽車を降りると、富山は寒いところなので、四月で春なのに雪があちこちに残っていました。駅からは今度はトラックの荷台に乗り、一面に広がる畑の中のガタガタ道を通り、やっとお寺に着きました。

 お寺や村の人たちに迎えられて、今日は特別だからと、白いお米だけのご飯を食べさせてくれました。何もはいっていないご飯なんて久しぶり、おかずはたくあんだけでも、とっても美味しかったのです。

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その時お寺には大勢の子どもたちが生活する用意がまだできていなかったので、しばらくのあいだは二、三人づつ分かれて、近所の農家にお世話になりました。私たち女の子三人がお世話になった家には、三人の女学校のお姉さんがおられました。親元を離れてきた子どもたちをかわいそうに思われたのでしょう、おばあさん、おじさん、おばさん、お姉さんたち、みんな本当の家族のようにとても親切にしてくださいました。後からお寺で生活するようになってからも、時々このおうちに帰ってきて、やぎやうさぎと遊んだり、にわとり小屋で卵を見つけたり、やぎのミルクも飲みました。また稲刈りなど、東京ではできない農家の事をいろいろ体験させていただきました。富山にいる間はここが私の家だったのです。

 学童疎開の子どもたちの中には、食べるものも少ないので強い子に取られたり、いじめられたりで、その頃の事は思い出したくもないと言う人も多いのです。戦争はいやなことです。家族が離れ離れになったり、遊びも勉強も楽しくできないなんて・・・農家の方たちとしても、親戚でもない全く知らないよその子を何日も預かるなど、とても気を遣う大変なことだったのでしょうね。

でも農家の生活を知らないおばあちゃんにとって、空襲のある東京を離れて、このおうちにお世話になり、かわいがって頂いたことは、とても楽しい思い出です。54年たった今でも、お姉さんたちと年賀状でお話ししているのですよ。いつかお尋ねしてお礼を言いたいと思っています。

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農家でしばらくお世話になった後いよいよこれからお寺で生活します。本堂でみんな並んで寝ます。お布団の出し入れもみんなでします。お寺の朝は早いです。ラジオ体操の後広い庭の掃除、食事の片づけなどみんなでします。男の子も女の子も小さな物はお洗濯もします。洗濯機も湯沸かし機もありませんよ。川は冷たいけれど、とてもきれいです。川の水や井戸水を汲んで、たらいで洗います。

小さい二年生もがんばっていました。村の子どもたちと一緒に勉強して学校から帰ると、お寺で宿題をしたり、川で魚釣りをしたり、東京の家族に手紙を書いたり、空襲のないのがとてもうれしかったです。もちろんテレビもゲームもないけれど、お手玉、おはじき、まりつき、あやとり、石けり、草で人形を作ったり、みんな工夫して遊んでいました。安心して外で遊べるので楽しかったです。

でも食べ物は少なくて、東京にいた時もそうでしたが、お米も少ししかないので、量を多くするために、色々なものが入っているのです。麦や大豆、大根、お芋などがたくさん入っています。味は何もついていないのですよ。さつまいもを掘ったことがありますね。あの葉っぱがついている茎も食べられたのです。けっしておいしくはありません。でもお腹が空いていたので、みんな我慢して食べました。

おやつも甘いものなどはありません、昼間みんなで田んぼでとったイナゴ(バッタのような稲を食べる虫)を炒った物や、節分の豆の小さくてもっと固いものなど。お芋は今のように黄色でほくほくしたおいしいものではなくて、白いお芋でした。

ただ東京にいた時のように敵の飛行機が来ないから、サイレンでかくれる事もなく、広々とした野原を村の子どもたちと、駆け回ったり山登りしたり、牛やヤギやうさぎと遊んだり、小さな浅い川で水遊び、蛍もたくさん捕まえてお寺の広い部屋に放すと、夜私たちが寝ている上に飛んでいて、とても綺麗でした。

子どもたちには戦争の事はほとんど知らされていません。日本はもうじき戦争に勝って、私たちも東京に帰って、お父さんお母さんにも会えるのだとばかり思ってました。

八月になって六日には広島に、九日には九州の長崎に、原子爆弾か落されました。これは世界で初めてのとても恐ろしい爆弾です。大勢の人が死んだり、病気になりました。原爆病は54年たった今でも、まだ直らないで毎年亡くなる方が大勢いるのです。そしてまだ病気で苦しんでいる人がたくさんいるのです。

こんな爆弾をいくつも落されたら大変です。昭和20年(1945年)8月15日日本が降参して戦争が終わりました。その時、負けたのは悔しいけれど、もう爆弾は落されないし、東京に帰って家族と会えるのが嬉しかったのです。

でもなかなか東京には帰れませんでした。東京には戦争に行っていた兵隊さんも大勢帰ってきます。家も焼けて住むところのない人もいます。学校なども壊れているし、田舎に行っていた子どもたちが、一度に帰ってくると、食べ物も少ないので大変なのです。やはり東京よりは田舎の方が、食べるものはおいしくはなくてもたくさんありましたから。

この戦争で、親と離れて都会から田舎に学童疎開した子どもは、日本全国で43万人と聞いています。

11月にやっと東京に帰ってきて新宿駅に着くと、まわりはずっと焼け野原が広がっていました。おばあちゃんの家は新宿から電車で一つ目なので心配でしたが、もう少しの所で焼けてはいませんでした。家族もみんな元気で、戦争に行ったお兄さんも、農家にお手伝いに行っていたお姉さんも無事に帰っていました。

本当におばあちゃんの家は運がよかったのです。その頃は戦争に行っていたお父さんお兄さんが戦死したり、空襲で家が焼けて、家族も亡くなって、一人ぼっちになってしまった子どもが大勢いました。道端や駅の中に寝たり、靴磨きや花売りなどをして、ほんの少しのお金をもらい、食べ物を買っている子どももいました。お金もなくなって、仕方なくお金や食べ物をどろぼうする子どももたくさんいたのです。食べなくては生きていられませんものね。

破れて汚れた服を着てふらふら歩いている人、小さな子の手をつないで、道にぼんやり座っている子、仕事もなく食べることもできないで、寒い冬でも駅のガード下にうずくまっている親子が何人もいました。周りの人たちも、みんな自分の事で精一杯、助けてあげることもできないのです。

平和でお金を出せば何でも買える生活をしている今の子どもたちには、いいえ、お父さんお母さんたちにも信じられないことかもしれないけれど、今から54年前、そういう苦しい時代がありました。

地震とか台風火山の噴火などは自然が起こすので、人間には防ぐことができません。でも戦争は人間が起こすのです。戦争があれば必ず人が死んだり苦しんだりします。そんな事はして良いはずありませんよね。

今でも戦争をしている国があります。テレビで見ると、日本の時よりもっと苦しんでいる人たちがたくさんいます。南の方の国には、今は戦争をしていない場所なのに、地面の下に爆弾が埋まっていて、上を歩くだけで爆発して、死んだり足をなくした人がいます。一度戦争をすると、なかなか平和に暮らせないのですね。科学が発達するのは良いのですが、原爆水爆など恐ろしい核兵器は絶対に使ってはいけない事なのです。これからのあなたたちの時代、早く世界中が平和になるとよいですね。

長いお手紙になってしまいました。あなたが四年生になった時、お話ししようと前から思っていました。同い年になれば気持ちもわかってもらえると思って、おばあちゃんとは54歳も年が違うのですね。学校でも戦争のことなどのお話しがあったら、こういう苦しくて悲しい時代のあったことを思い出してください。そして今、戦争のない平和な日本で、楽しい良い思い出をだくさん作ってください

             平成11年8月

ママのお母さんのお話読んでくれてありがとう

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